ブロンズ鋳造彫刻について@愛知県立美術館館長
| APMoA館長 @masa7878 |
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その1):今日は基本的なブロンズ鋳造彫刻の制作過程を呟きます。まず、彫刻家は、粘土を用いて元になる作品を作ります。これを仮に「粘土作品」と呼ぶことにします。粘土作品からそのままブロンズ鋳造は出来ませんので、まず、これを石膏に移しかえます。(2012-02-21 21:09:13) | link | |
| APMoA館長 @masa7878 |
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その2):粘土作品に溶いた石膏を掛けていき、それが固まると、まだ柔らかい粘土をかきとってしまいます。石膏には粘土作品とは凹凸逆のかたちが残ります。これを「雌型」と呼びます。この段階で彫刻家が最初に作った「粘土作品」は無くなっています。(2012-02-21 21:14:30) | link | |
| APMoA館長 @masa7878 |
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その3):今度は、その凹凸逆の石膏雌型に、また溶いた石膏を流し込みます。そして石膏が硬化した後で、雌型を外します(実際は壊してしまう)。そうすると元の「粘土作品」のかたちが石膏に移しかわります。これがブロンズ鋳造の元となる「石膏原型」です。(2012-02-21 21:18:19) | link | |
| APMoA館長 @masa7878 |
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その4):従って「石膏原型」は、彫刻家が最初に作った「粘土作品」の子どもということになります。いよいよブロンズ鋳造を行うとなると、この石膏原型を用い、それを型取りして、鋳造のために再び凹凸逆の「雌型(外型)」を作ります。(2012-02-21 21:25:27) | link | |
| APMoA館長 @masa7878 |
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その4):今度は、その「雌型(外型)」の内側に、一定の隙間ができるように「中型(中子)」を作ります。そして「雌型」と「中子」を組み合わせて、その隙間に高温で溶けた銅合金を流し込み、硬化した後、雌型も中子を崩し去ると、そこにブロンズ像ができます。(2012-02-21 21:30:56) | link | |
| APMoA館長 @masa7878 |
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その5):「ブロンズ像」は、はみ出た金属など細部を調整し、これに「パティナ」と呼ばれる着色が施されて、ようやく「ブロンズ鋳造作品」が出来あがります。それは「粘土作品」→「石膏原型」→「ブロンズ像」と、写すという過程2回を経たものなのです。(2012-02-21 21:35:28) | link | |
| APMoA館長 @masa7878 |
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その6):「ブロンズ鋳造作品」が複数作られる場合(ロダンの場合は現在は12体という限定)、その都度、この石膏原型からの型取りと鋳造、着色が繰り返されることになります。つまりブロンズ鋳造作品は、等しく「石膏原型」の子、いわば兄弟ということになります。(2012-02-21 21:39:40) | link | |
| APMoA館長 @masa7878 |
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その7):ところで、その「石膏原型」から型取りして鋳造のための鋳型を作る方法が主なものでも数種類あります。「砂型(焼型)」「蝋型」「ガス型」「樹脂型」などです。そして、この型取り方法の違いが、できあがった「ブロンズ鋳造作品」の質感にも影響します。(2012-02-21 21:44:57) | link | |
| APMoA館長 @masa7878 |
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その8):ブロンズ鋳造のための各種の型取り方法ついては、また改めて。今日のポイントは「石膏原型」が作られる過程。そこから、その都度型取りして鋳造されるものが「ブロンズ作品」ということ。これを一般に「オリジナル・ブロンズ」「オリジナル作品」と呼びます。(2012-02-21 21:50:06) | link | |
| APMoA館長 @masa7878 |
「ブロンズ鋳造彫刻について」(終わり):ところが「ブロンズ鋳造」は、その「石膏原型」から直接型取りをしないで、例えば、既にある「ブロンズ鋳造作品」から型取りして「ブロンズ複製」を作ることもできるわけです。こういうものが市場に出回ってブロンズ彫刻の世界に混乱をもたらしています。(2012-02-21 21:57:42) | link | |
| APMoA館長 @masa7878 |
お詫び:「ブロンズ鋳造彫刻について」:二つの連続する異なるツイートに(その4)というおなじ番号を付けてしまいました。あしからず(2012-02-21 22:01:39) | link | |
| APMoA館長 @masa7878 |
「ブロンズ鋳造彫刻について」(おまけ):「石膏原型」と「ブロンズ鋳造作品」の比較。「うつし、うつくし」展@愛知県美術館では、戸張孤雁の代表作《煌めく嫉妬》の石膏原型と、2体のブロンズ鋳造作品を同時に展示しています。貴重な機会です。ぜひご来場ください!!(2012-02-21 22:14:12) | link |
| 愛知県美術館[試験運用中] @apmoa |
先ほど館長も触れておりましたが、石膏原型とブロンズ鋳造作品とを並べて比較できる機会はそうそうありません。が、「うつし、うつくし」展では戸張孤雁《煌めく嫉妬》でそれが可能に!http://t.co/LAyD5Oay(2012-02-21 23:23:31) | link | |
| 愛知県美術館[試験運用中] @apmoa |
粘土から石膏、ブロンズへというプロセスはまさに「うつし」ですが、他にもクレーの《蛾の踊り》の線描の転写技法や、エルンスト《ポーランドの騎士》の元ネタ?、熊谷守一のヴァリアントについて、などお馴染みの所蔵作品についてもいつもと違った「うつし」という視点からご紹介しております。(2012-02-21 23:41:08) | link |
現在、知られている作品で最も初期の作品は26歳筆の落款のあるもので、能登を中心に石川県・富山県などに10数点が確認されています。これらの作品には、袋形の「信春」印が捺されており、等伯若年期には信春の名で活躍していたことが知られています。その内、奥村家の菩提寺・本延寺の等伯が自ら彩色寄進した木造「日蓮聖人坐像」(七尾市・本延寺蔵)、「日乗上人像」(羽咋市・妙成寺蔵)、「日蓮聖人像」「釈迦・多宝仏図」「鬼子母神・十羅刹女図」「三十番神図」(4点共、高岡市・大法寺蔵)、平成14年に東京国立博物館の調査で明らかとなった、33歳筆「鬼子母神・十羅刹女図」(富山市・妙傳寺蔵)は何れも日蓮宗関係であり、等伯自身も熱心な法華信者であったことがうかがわれます。
さて、上洛後等伯は、本延寺の本山・本法寺の塔頭である教行院に住し、制作活動を行います。本法寺には、その当時の住職で若くして亡くなった日堯上人の肖像画が現存し、「父道浄六十五歳」「長谷川帯刀信春三十四歳筆」の款記と袋形「信春」印が確認されています。本作品は、美術作品としてはもちろんの事、等伯研究で知られた故 土居次義氏が「長谷川等伯・信春同人説」を提唱されるに至った、重要な資料としても知られています。
本図は、樹下で眠る陳希夷の姿を描いた水墨画で、小品ではありますが確かな筆致を見ることができます。晩年の等伯作品に通ずる樹木や人物の顔描の他、興味深いのは狩野派を思わせる衣紋の線です。また、海老根聰郎氏は、梁櫂との関わりも指摘されています。京都に出て仕事をするには、等伯といえども最初はやはり狩野派の門をくぐったのかも知れません。さらに、特筆すべきは『等伯画説』の一文です。そこには、紫野(大徳寺)にある雪舟の描いたチントン南(陳希夷)の記述があり、これをそのまま解釈すれば、当時大徳寺に雪舟の描いた「陳希夷睡図」があり、等伯がその作品を見て影響を受けたとしても不思議ではないのです。すなわちこの時期は、狩野派のみならず様々な画派の絵画を学び消化吸収し、そこから等伯ならではの独自の表現を試みていった、非常に重要な期間と言えます。
当時、七尾の海岸沿いにはずっと松林が続いていたと考えられます。描かれた松林は、強風に耐え細く立ちすくむ能登の松林に、あまりにも似ています。良き理解者である千利休を亡くし、息子久蔵を失った等伯の目に映ったのは、郷里七尾の松林だったのかも知れません。心象風景とも見えるこの「松林図屏風」には、大切な人たちの死を乗り越え、水墨画にその境地を求めていった等伯の心情が映し出されているのです。 等伯50歳代は、深い悲しみに見舞われながらも、「松林図屏風」をはじめ「竹林猿猴図屏風」(相國寺・承天閣美術館蔵)や「樹下仙人図屏風」(京都市・壬生寺蔵)、「枯木猿猴図屏風」(妙心寺・龍泉庵蔵)や出光美術館所蔵で知られる「竹鶴図屏風」「松に鴉・柳に白鷺図屏風」「竹虎図屏風」など多くの優れた水墨画を制作し、画家としては最も充実した時代だったとも言えるのです。
れる大幅で、華やかな描表具を含めると高さ10mにも及びます。本図は供養を行う前に宮中に持参し、披露したという記録も残っている作品で、「雪舟五代」と「六十一歳」の書き込みがあり、60歳前後から「自分は雪舟より五代目なのだ」ということを強く打ち出し、より長谷川派の結束を固めようとしたと解されます。注目されるのは、本図表具の裏には日蓮聖人以下の諸祖師、本法寺開山の日親上人以下歴代住職及び、祖父母や養父母、等伯より先立った息子たちなどの供養銘が記されていることです。老齢の等伯が、一派で描いた大涅槃図…いったいどんな思いで描いたのでしょうか。この大きな画面の中で嘆き悲しむ弟子や動物たちを前にした時、まるで先立っていった人々への等伯の哀悼と供養の想いが伝わってくるようです。
