ブロンズ鋳造彫刻について@愛知県立美術館館長

APMoA館長
@masa7878
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その1):今日は基本的なブロンズ鋳造彫刻の制作過程を呟きます。まず、彫刻家は、粘土を用いて元になる作品を作ります。これを仮に「粘土作品」と呼ぶことにします。粘土作品からそのままブロンズ鋳造は出来ませんので、まず、これを石膏に移しかえます。(2012-02-21 21:09:13) link
APMoA館長
@masa7878
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その2):粘土作品に溶いた石膏を掛けていき、それが固まると、まだ柔らかい粘土をかきとってしまいます。石膏には粘土作品とは凹凸逆のかたちが残ります。これを「雌型」と呼びます。この段階で彫刻家が最初に作った「粘土作品」は無くなっています。(2012-02-21 21:14:30) link
APMoA館長
@masa7878
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その3):今度は、その凹凸逆の石膏雌型に、また溶いた石膏を流し込みます。そして石膏が硬化した後で、雌型を外します(実際は壊してしまう)。そうすると元の「粘土作品」のかたちが石膏に移しかわります。これがブロンズ鋳造の元となる「石膏原型」です。(2012-02-21 21:18:19) link
APMoA館長
@masa7878
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その4):従って「石膏原型」は、彫刻家が最初に作った「粘土作品」の子どもということになります。いよいよブロンズ鋳造を行うとなると、この石膏原型を用い、それを型取りして、鋳造のために再び凹凸逆の「雌型(外型)」を作ります。(2012-02-21 21:25:27) link
APMoA館長
@masa7878
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その4):今度は、その「雌型(外型)」の内側に、一定の隙間ができるように「中型(中子)」を作ります。そして「雌型」と「中子」を組み合わせて、その隙間に高温で溶けた銅合金を流し込み、硬化した後、雌型も中子を崩し去ると、そこにブロンズ像ができます。(2012-02-21 21:30:56) link
APMoA館長
@masa7878
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その5):「ブロンズ像」は、はみ出た金属など細部を調整し、これに「パティナ」と呼ばれる着色が施されて、ようやく「ブロンズ鋳造作品」が出来あがります。それは「粘土作品」→「石膏原型」→「ブロンズ像」と、写すという過程2回を経たものなのです。(2012-02-21 21:35:28) link
APMoA館長
@masa7878
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その6):「ブロンズ鋳造作品」が複数作られる場合(ロダンの場合は現在は12体という限定)、その都度、この石膏原型からの型取りと鋳造、着色が繰り返されることになります。つまりブロンズ鋳造作品は、等しく「石膏原型」の子、いわば兄弟ということになります。(2012-02-21 21:39:40) link
APMoA館長
@masa7878
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その7):ところで、その「石膏原型」から型取りして鋳造のための鋳型を作る方法が主なものでも数種類あります。「砂型(焼型)」「蝋型」「ガス型」「樹脂型」などです。そして、この型取り方法の違いが、できあがった「ブロンズ鋳造作品」の質感にも影響します。(2012-02-21 21:44:57) link
APMoA館長
@masa7878
「ブロンズ鋳造彫刻について」(その8):ブロンズ鋳造のための各種の型取り方法ついては、また改めて。今日のポイントは「石膏原型」が作られる過程。そこから、その都度型取りして鋳造されるものが「ブロンズ作品」ということ。これを一般に「オリジナル・ブロンズ」「オリジナル作品」と呼びます。(2012-02-21 21:50:06) link
APMoA館長
@masa7878
「ブロンズ鋳造彫刻について」(終わり):ところが「ブロンズ鋳造」は、その「石膏原型」から直接型取りをしないで、例えば、既にある「ブロンズ鋳造作品」から型取りして「ブロンズ複製」を作ることもできるわけです。こういうものが市場に出回ってブロンズ彫刻の世界に混乱をもたらしています。(2012-02-21 21:57:42) link
APMoA館長
@masa7878
お詫び:「ブロンズ鋳造彫刻について」:二つの連続する異なるツイートに(その4)というおなじ番号を付けてしまいました。あしからず(2012-02-21 22:01:39) link
APMoA館長
@masa7878
「ブロンズ鋳造彫刻について」(おまけ):「石膏原型」と「ブロンズ鋳造作品」の比較。「うつし、うつくし」展@愛知県美術館では、戸張孤雁の代表作《煌めく嫉妬》の石膏原型と、2体のブロンズ鋳造作品を同時に展示しています。貴重な機会です。ぜひご来場ください!!(2012-02-21 22:14:12) link

 

愛知県美術館[試験運用中]
@apmoa
先ほど館長も触れておりましたが、石膏原型とブロンズ鋳造作品とを並べて比較できる機会はそうそうありません。が、「うつし、うつくし」展では戸張孤雁《煌めく嫉妬》でそれが可能に!http://t.co/LAyD5Oay(2012-02-21 23:23:31) link
愛知県美術館[試験運用中]
@apmoa
粘土から石膏、ブロンズへというプロセスはまさに「うつし」ですが、他にもクレーの《蛾の踊り》の線描の転写技法や、エルンスト《ポーランドの騎士》の元ネタ?、熊谷守一のヴァリアントについて、などお馴染みの所蔵作品についてもいつもと違った「うつし」という視点からご紹介しております。(2012-02-21 23:41:08) link

ロダンのブロンズ作品について@愛知県美術館館長

APMoA館長
@masa7878
ロダンのブロンズ作品について(その1):ロダン作品として全国各地の美術館等に収蔵されている作品は数多くあります。それらのなかにはロダンが自分の作品として認めたことが明確なものから、歿後の鋳造、それも近年のロダン美術館による鋳造まで様々なものがあります。典型作例と識別方法について。(2012-02-19 20:33:12) link
APMoA館長
@masa7878
ロダンのブロンズ作品について(その2):ロダンが生前に自身の鋳造作品として確認したことが明確なもの。新潟市美術館《花子のマスク》は、ロダンがモデルとなった花子さんに直接贈ったもの。素晴らしい鋳造ならびにパティナ(着色)の仕上がりです。(2012-02-19 20:36:35) link
APMoA館長
@masa7878
ロダンのブロンズ作品(その3):雑誌『白樺』との交流の中で、ロダン自身が、白樺に贈った3点の作品。《ロダン夫人》《或る小さき影》など。これらの作品は白樺美術館からの永久寄託作品として大原美術館で保管され公開されています。3点の造形の広がり、濃密なパティナ、必見の作品です。(2012-02-19 20:41:18) link
APMoA館長
@masa7878
ロダンのブロンズ作品(その4):ロダンはある時期から特定の鋳造所で作品を作るようになります。鋳造銘は「Alexis Rudier.Fondeur.Paris」アレクシスはロダンが最も信頼した鋳造家。国立西洋美術館の松方コレクションの多く、愛知県美の《歩く人》がこの鋳造銘。(2012-02-19 20:47:24) link
APMoA館長
@masa7878
ロダンのブロンズ作品(その5):「Alexis Rudier」の後、1952年から1970年代まで「Georges Rudier.Fondeur.Paris」という鋳造銘が使われるようになります。作例は、国立西洋美術館の前庭にある《カレーの市民》、名古屋市博物館の《考える人》など(2012-02-19 20:57:00) link
APMoA館長
@masa7878
ロダンのブロンズ作品(その6):「Alexis Rudier」の後、1952年から1970年代まで「Georges Rudier.Fondeur.Paris」という鋳造銘が使われました。作例は、国立西洋美術館の前庭にある《カレーの市民》、名古屋市博物館の《考える人》など(2012-02-19 20:58:14) link
APMoA館長
@masa7878
ロダンのブロンズ作品(その7):Georges Rudier鋳造所の時代から、ブロンズ鋳造作品にはロダン美術館の管理銘と鋳造年が刻印されるようになります。「Ⓒ By Musée Rodin 19@@」と記されていて、鋳造年までがわかります。全国各地の美術館で収蔵されています。(2012-02-19 21:05:17) link
APMoA館長
@masa7878
ロダンとブロンズ作品(終り):ロダンだけでなく、多くの彫刻家のブロンズ作品は、その制作上の特性から、作家自身の死後も没後鋳造が一般的に行われています。版画でいえば「後摺り」。そのオリジナル性について様々な意見がありますが、扱いは慎重であるべきでしょう。少なくとも意識しなければ…(2012-02-19 21:09:45) link
泰井良 静岡県立美術館
@youki0904
@masa7878 ロダンの場合、フランス政府が12体まで鋳造することを認めています。生前鋳造は、この限りではなく、考える人は、21体鋳造されています。(2012-02-19 20:39:27) link
APMoA館長
@masa7878
はい、限定数は12で、厳密には1~8とⅠ~Ⅳで区別があります。国立ロダン美術館は、管理責任と品質について保証しています。@youki0904 ロダンの場合、フランス政府が12体まで鋳造することを認めています。生前鋳造は、この限りではなく、考える人は、21体鋳造されています。(2012-02-19 21:14:38) link
泰井良 静岡県立美術館
@youki0904
@masa7878  静岡県立美術館のロダンも大半が没後鋳造です。アレクシス・リュディエによる生前鋳造は、2点のみです。生前鋳造は、主に砂鋳造であり、当館のは臘型鋳造です。ブロンズの鋳造年も、キャプションに明記すべきかもしれません。(2012-02-19 21:21:23) link
APMoA館長
@masa7878
@youki0904 そうですね。以前、メトロポリタン美に行ったとき、キャプションには制作年と鋳造年が併記されていました。できればそうした方がよいと思います。ただ、日本の近代彫刻はもっと複雑で、鋳造年のわかるもの少なく、館の展示での情報として統一できないので当館でも悩みの種です。(2012-02-19 21:27:08) link
APMoA館長
@masa7878
@youki0904 砂型鋳造と蝋型鋳造では、鋳造の仕上がり、特に表面の質感にかなり違いがありますね。また、ロダンではありませんが、近年ではガス型鋳造、樹脂型鋳造と、型取りに技術的な習熟が少なくてすむ方法が導入され、その結果としてブロンズの仕上がりにもかなりの違いが出ています。(2012-02-19 21:32:14) link
泰井良 静岡県立美術館
@youki0904
@masa7878  一時、鋳造問題で、鋳造の時代と方法の違いを、鋳造の良し悪しに結び付ける考えがありました。おっしゃるように、私も鋳造方法の違いは、表現の違い、芸術的感性の違いの問題だと考えます。(2012-02-19 21:37:00) link
APMoA館長
@masa7878
そうですね。でも、そのことが没後鋳造の問題にかかわるのではと思います。RT@youki0904 一時、鋳造問題で、鋳造の時代と方法の違いを、鋳造の良し悪しに結び付ける考えがありました。おっしゃるように、私も鋳造方法の違いは、表現の違い、芸術的感性の違いの問題だと考えます。(2012-02-19 21:44:16) link

館長による「ロダンのブロンズ作品について」 - Togetter

 

Hiroshi Kumazawa
@kmzwhrs
APMoA館長の連ツイにあった、ロダンのブロンズ問題に、ちょっとだけ(?)関連するような企画が1年半前の展覧会にあった。2010年度秋に芸大美術館で開催した「明治の彫塑 ラグーザと荻原碌山」展。http://t.co/E2FGi3w2(2012-02-20 02:21:19) link
APMoA館長
@masa7878
@kmzwhrs あの展覧会はブロンズ鋳造に関心を抱く者にとって、大変刺激的で貴重な機会でした。特に荻原守衛(禄山)《女》は、いろいろな鋳造を比較できました。この作品はあまりに問題が多く、複雑ですが、何れアウトラインだけでもつぶやきたいと思います。(2012-02-20 08:48:48) link
SHISEI KINOSHITA
@shiseiology007
@masa7878 @kmzwhrs ★トーハクの石膏原形の/・これですね。→http://t.co/qGpRc8aR(2012-02-20 12:59:16) link
APMoA館長
@masa7878
@shiseiology007 はいそうです。荻原守衛《女》石膏原型@東京国立博物館。写真はこちら→ http://t.co/4bxpQABL(2012-02-21 07:21:19) link

芥川賞に選ばれて:言いたいこと、あの夜と今=田中慎弥 - 毎日jp(毎日新聞)

芥川賞に選ばれて:言いたいこと、あの夜と今=田中慎弥

すでに各メディアで流されたから御存知の方も多いだろうが、一月十七日、私の小説が芥川賞に決まった日の夜、東京でバカな記者会見をした。女優の言葉を引用し、自分がもらって当然と言い、さらに石原慎太郎都知事に言及した。その後のさまざまな報道のされ方の中には、事実と違う部分がかなりある。終わったこととはいうものの、私の知っている範囲の事情を、どうしても書いておきたい。

まず、十七日の会見の段階で私は、石原氏が六日に行った、今度の芥川賞候補作はバカみたい、という発言を全く知らなかった。正確な内容を知ったのは十八日になってからだ。次に、会見内での、もらって当然、都知事と都民のためにもらっといてやる、という言い方は、はっきり言うと最終候補になるずっと前から、もしその時が来たら言ってやろうと準備していたものだった。だから、六日の都知事の発言に田中がかみついた、というのはメディアが勝手に作った図式だ。

もう一つ、その後の石原氏の選考委員退任について。これを知ったのもやはり受賞決定の翌日のこと、編集者から知らされる、という形だった。選考会が開かれる前は勿論(もちろん)、会見場に到着して関係者と顔を合わせた時にも、誰からもそんな話は出なかった。石原氏の真意や、いつ退任を決意し、表明したのかについては諸説出ているようだが、私が賞をもらうのが原因とは思えない。実際その後の会見で石原氏は、私の作品を推したと語っている。少なくとも、引導を渡すだの寝首を掻(か)くだのといった種類の話ではない。私が知っていることはだいたいこのようなものだ。それ以外のことは分からない。

それにしても、あんな騒ぎになるとは思いもしなかった。会見で石原氏のことを言えばその場が一気に盛り上がり、和むだろうと考えていただけだ。会見を御覧になった方はお分かりだろうが、私はテレビ映えしない。だから言葉の上で何か面白いことを言って切り抜けないことにはどうしようもない。だからああいうことを言っただけ。それがメディアの作ったストーリーによって思わぬ大きさに膨らんでしまった。

だがそもそもは、作家が言いたいことを言い合った、ただそれだけだ。作家というものは昔からさまざまな形でぶつかったり、反目したりしてきた。文学上の論争のこともあったし、私怨(しえん)に近いこともあった。まっとうな作品批判から相手の生活や容姿を嘲(あざけ)るようなものまで、熱心に、幅広く行われてきた。時には言葉だけでなく肉体的な暴力に発展する場合まであったのだ。

今回は言葉の上のこと。なのにそこへメディアが集まった。まるで事件現場に群がるように。つまりいまの日本というのは、作家の言い合いに過剰に反応するほどにまで、ものが言いづらい世の中なのではなかろうか。だから好きなことを言う人間を珍しがっているのではないのか。そのあたりを、人の言い合いを流すだけのメディアは、いったいどう考えるのか。私はネットをほとんど知らないが、ブログやツイッターで言いたいことを言っているように見える日本人は、実は言いたいことを出し切れていないのかもしれない。この点を分析する能力は自分にはない。ひょっとすると、言いたいことを自由に言っている石原氏や私は、古いタイプの書き手なのだろうか。(たなか・しんや、作家=「共(とも)喰(ぐ)い」で第146回芥川賞)

毎日新聞 2012年1月26日 東京夕刊

芥川賞に選ばれて:言いたいこと、あの夜と今=田中慎弥 - 毎日jp(毎日新聞)

「ぬぐ絵画」展への怒り

水野 亮(3)
@drawinghell
週が明けても未だに「ぬぐ絵画」展への怒りがおさまらない。自分が昔書いた卒論のテーマとも重なる部分があるだけに、まだまだ言い足りない気がする。しかしホント、なんだったんだろう、あの展示は?(2011-12-12 20:48:10) link
水野 亮(3)
@drawinghell
(ぬぐ絵画)展覧会本体よりも特設サイト( http://t.co/URkY7n4S )のほうがヨッポドよく出来ている。少なくともここには健全なる「エロ目線」があるからだ。しかし展覧会本体は「エロ目線」を懸命に無視しようとしているとしか思えない歪なキュレーションだった。(2011-12-12 20:49:07) link
水野 亮(3)
@drawinghell
(ぬぐ絵画)そもそも「エロ(猥褻)」として見られていたヌードが、「芸術」として受け止められるようになる過程を説明するのに、「エロ(猥褻)視線」を無視して説明できるハズがないのだ。しかし(特設サイトにはある)「エロ目線」が、なぜか展示では執拗に排除されたカマトトな内容になっていた。(2011-12-12 20:50:05) link
水野 亮(3)
@drawinghell
(ぬぐ絵画)明治34年、黒田清輝の≪裸体夫人像≫は陳列の際、下半身を布で覆って展示された。本展ではそれに対して「当時は性器が見えることが問題だったらしい」という説明を付していたが、「当時は」ってナンダヨ? 猥褻の定義と規制が、性器の「見える/見えない」が中心なのは今もだろっ!(2011-12-12 20:51:36) link
水野 亮(3)
@drawinghell
(ぬぐ絵画)「猥褻=性器が見える」という性器中心型の機械的な規制が、「性器さえ見えなければ何をやってもいい」という解釈のもと日本のポルノグラフィを(表現の多様性という点で)いい意味でも(道徳的、倫理的な側面で)悪い意味でも巨大に発展させてきたことは論をまたない。(2011-12-12 20:52:28) link
水野 亮(3)
@drawinghell
(ぬぐ絵画)自分が知りたいのは、この「性器が見える=猥褻」とする「はだか」観と、黒田が西洋から輸入したヌードの像を陳列することが「猥褻」ではなく「芸術表現」として自然なことであるという「はだか」観の形成が、どこでどうリンクしているのか?ということなのだ。(2011-12-12 20:54:14) link
水野 亮(3)
@drawinghell
(ぬぐ絵画)さすがに最近は隔世の感があるのかもしれないが、1990年代初頭の「ヘアヌード写真集」ブーム以前は、日本における猥褻写真の取り締まり基準は、陰毛が写っているか否かだった。つまり当時は「性器」とは「陰毛」のことだったのだ。(2011-12-12 20:55:19) link
水野 亮(3)
@drawinghell
(ぬぐ絵画)ちなみに黒田の≪裸体夫人像≫には、性器も陰毛も描かれていない。にも関わらず、明治34年の時点では「性器が見えることを問題にして」全裸の裸婦像の下半身のみを布で覆って陳列されていたのである。これは「はだか」観の形成の過程を見るにあたって重要な事実だろう。(2011-12-12 20:56:04) link
水野 亮(3)
@drawinghell
(ぬぐ絵画)船来の「芸術」としての「はだか」観が定着したポイントは、西洋画の女性ヌードには陰毛が描かれていないことだったと思われる。逆に言えばそれこそが「陰毛が見えていなければ芸術だから猥褻ではない」という過度の性器中心主義的な規制と猥褻観を生む基になったのではないか?(2011-12-12 20:57:05) link
水野 亮(3)
@drawinghell
(ぬぐ絵画)たとえば今から30年ほど前、日本では「少女ヌード写真集」なるものが盛んに出版された。いわゆる「ロリータブーム」だ。現在では考えられないこのブームを可能にしたものが「性徴期の少女の裸には陰毛が生えていない=芸術である=猥褻ではない」という「はだか」観だったのである。(2011-12-12 20:57:41) link
水野 亮(3)
@drawinghell
(ぬぐ絵画)つまり明治時代に導入された「(陰毛の見えない)ヌード=芸術」という「はだか」観が、「猥褻/芸術」の線引きを基にしたその後の日本人の「はだか」観へと繋がっていくのだ。その意味ではこれは「芸術」内に留まらない問題でもある。(2011-12-12 20:58:23) link
水野 亮(3)
@drawinghell
(ぬぐ絵画)ところが本展ではそのような「エロ目線」的な見地を一切排除して、あたかも洋画家の画面内の工夫だけで、ヌードを「猥褻」として見る無知で「未開な」視線が矯正され、「芸術」として見る船来の「正統な」視線が定着したかのように描かれる。欺瞞もいいところだ。(2011-12-12 20:59:08) link
水野 亮(3)
@drawinghell
(ぬぐ絵画)自分が怒っているのは、こんなマヤカシまがいなキュレーションのために、自分の好きな作家の作品が中途半端なかたちで使われていたからである。本来ならば喜ばしきものになるはずだった作品たちとの出会いが、土足で踏みにじられた思いがする。ホンッッット腹立たしい!(2011-12-12 21:00:00) link

 

中島 智
@nakashima001
@drawinghell 未見ですが、水野さんのおっしゃる通り、「エロ目線」と「芸術」との分断は欺瞞であり、蒙昧であると僕も思います。そのことは僕が高校一年の時、当時高校三年の中原浩大さんがいみじくも指摘していて、とても共感を覚えた記憶があります。(2011-12-14 18:31:30) link
水野 亮(3)
@drawinghell
@nakashima001 ポルノグラフィが社会的な産物ならば、「エロ目線」もまた社会的産物です。「芸術/猥褻」を基準とした現代にまで続く「エロ目線」を形成したのかもしれないその歴史的端緒に触れながら、あえてそれを無視しようとしているかのような印象を受けてしまったのが残念でした。(2011-12-14 19:32:26) link
水野 亮(3)
@drawinghell
@nakashima001 部分的に非常に示唆に富む重要な展示だと思うのですが、なぜああいう構成にしてしまったのか。。。是非実見されての中島さんの感想も伺ってみたいところです。(2011-12-14 19:33:00) link

東京国立近代美術館「ぬぐ絵画」展特設サイト

展覧会情報ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945

ぶらりと兼六園に裏から回って行ってみたら案外面白かった

a.k.a. Shirae
@ttt_cellule
これまで興味がなかったが、ぶらりと兼六園に裏から回って行ってみたら案外面白かった。変化する高低差のなかに、足の踏み入れられることのない苔蒸す庭土と散策路が編目状に配され、移動ごとに定位が変化する。(2011-11-29 15:20:53) link
a.k.a. Shirae
@ttt_cellule
しばしば兼六園のイメージに使われる唐沢松+石燈籠+霞ヶ池の組み合わせはかなりどうでもいい代物に思えた。池は重要だが、庭園中心部に位置する、高低差による視界遮蔽の無い広がりを提供する舞台装置であり、編目状の無数の坂との組み合わせがないと全然印象が違う(2011-11-29 15:24:21) link
a.k.a. Shirae
@ttt_cellule
古庭というものはかなりグロテスクな顔を持ち、巨大すぎて地表に絡み合う無数の根を剥き出しにする巨木があり、それもまたすっかり苔に飲まれてしまっており、あるいは剪定の結果幹と枝の配置が異様なものになっているものも珍しくない。優美さだなんて嘘だろと思いながら見てた(2011-11-29 15:30:54) link
a.k.a. Shirae
@ttt_cellule
散策路から遮断された苔蒸す庭土の一角というのは、見るためだけに用意された光景で、見ているうちにスケール把握の感覚が狂ってくる。苔の密集は、上空から密林を眺めているようなテクスチャを思わせる。庭園の苔ってたぶん場所の線引きや延長性を動揺させる素材なんじゃないかな。(2011-11-29 16:15:17) link
a.k.a. Shirae
@ttt_cellule
人力と金をたらふくぶちこんで成り立っている公開式日本庭園というのは、異彩を放つ見世物であり、どういう設計意図で維持されてるんだ? と興味が沸いた(2011-11-29 16:17:06) link
a.k.a. Shirae
@ttt_cellule
あと、あの散策路の配置はかぎりなく迷路に近いむやみやたらな乱脈なので、霞ヶ池狙いで直進して廻るのは一番つまらないように思う。そこで、散策路の配置に基づくシークエンス設計にどんなパタン構築があるものなのかと気になった。(2011-11-29 16:20:09) link
a.k.a. Shirae
@ttt_cellule
唐沢松+石燈籠+霞ヶ池の一枚絵が兼六園のイコンとなってしまうのは、シークエンスそのものをイメージにすることが困難だからなのだろう。他の古来からある代表的な日本庭園ではそれをどう処理しているのかも気になった(2011-11-29 16:22:16) link

「日本画」

大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
普段予備校では、生徒に部分的に進めないとか、バランス良くとか言ってますが、実制作はめちゃくちゃ部分的。所々、細かく盛り上げたりしてますが、画像じゃ写りません…。色を薄くかけたときに引っかかるので、うろこを盛り上げてます。 http://t.co/TdMNuUoD(2011-11-16 20:41:25) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
画像でわかるレベルの仕事だと、うろこを蛍光ピンクで、隈取りしてる部分があるんですが、それは、今後、群青系の(九番くらい)の砂のような絵具で描いた時に、間から、蛍光ピンクが見えて、錯視のような効果を生むためです。(2011-11-16 20:46:59) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
このように、日本画の画材は僕自身、まだまだわからないことだらけですし。少し工芸品を作るような頭を使わないと作れないわけですが、まだまだ日本画材も他の画材では出せない効果を生み出す可能性があると思います。(2011-11-16 20:49:44) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
是非、これを見てくれた美大生や予備校生諸君も、日本画という制度的な話だけでなく、画材や表現の可能性にも興味を持ってみてはいかがでしょう?別に日本画材使っても、日本画を描かなければ、良いのですし。(2011-11-16 20:54:28) link
fjimyk
@b_r_o_o_c_h
@masaommy  突然失礼致します。はじめまして、私は京都の美大で日本画を学んでいます。大浦さんは「日本画」とはどのようなものとお考えですか?是非ご意見を聞かせてください。(2011-11-16 21:06:50) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
@b_r_o_o_c_h ご質問ありがとうございます!あくまで僕個人の意見ですが、日本や日本の表現について考え、表現された絵だと思います。なので、僕は現代美術と言われているものの中にも、日本画が相当数あると思いますし。(2011-11-16 21:12:36) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
@b_r_o_o_c_h その逆に、日本画と言われている中にも、日本画ではなく、絵画というものが相当数あると思ってます。僕があまりに日本画LOVEなので、詳しくはこの字数では述べられませんが、(2011-11-16 21:16:49) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
@b_r_o_o_c_h 洋画の対抗概念というのは、たとえ成立当初がそうであっても、僕は実感として全くありません。明治以前の諸派の統合、日本絵画を研究して刷新するのが日本画という感覚が一番強いです。(2011-11-16 21:24:02) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
@b_r_o_o_c_h 長くなってしまいすみません。ただ、これは同じ思いのひとが、どれだけいるか?ただの個人的な考えなのですが、日本画をやっている時点で真摯に日本絵画を研究すればいいと思います。そして、歴史上はそのねじれた日本画を是非、誇りに思っていただきたい。(2011-11-16 21:27:16) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
@b_r_o_o_c_h なぜなら、近代の日本がそうであり、これ以上日本を象徴する絵画は他にないのですから。長文失礼しました。ただ、まだ話したりないです(笑 僕は日本画が大好きです。(2011-11-16 21:35:56) link
fjimyk
@b_r_o_o_c_h
@masaommy 長文ありがとうございます!なるほど、確かに今日の日本画の状況と、今日の日本の文化性には共通した面があると私も考えます。 大浦さんの話是非ききたいです。(2011-11-16 21:47:26) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
@b_r_o_o_c_h こちらこそ、ご質問ありがとうございます。こんな廃れゆく文人画家みたいな考えで良ければ、いつでもお話しください。ありがとうございました。(2011-11-16 22:01:32) link

 

大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
ずっと、日本画とか美術ジャンルとか制度とかの話を、美術に関係のない友達にわかりやすく話す例えを探してたのですが、今日やっと、自分なりに見つけることができました。(2011-11-18 01:08:50) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
かなりの連投が予想されますので、皆様のタイムラインを汚さないよう深夜につぶやきますので、興味ない方はどうぞ、飛ばしてください。(2011-11-18 01:10:23) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
僕のイメージでは、「日本画」という言葉を使う場合、また、「日本画」の方が新たに制作される場合、世間的には、演歌や日本歌謡と言われるようなジャンルを作っている感覚に近いです。(2011-11-18 01:13:16) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
そして、「日本絵画」という言葉を使う場合は、「クラシック」や和楽器を使った「邦楽」のイメージを持っていただくと良いかと思います。(2011-11-18 01:16:05) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
で、僕は日本画(演歌、日本歌謡)が大好きなので、「天城越え」や、「夜桜お七」「川の流れのように」のような面白い日本画(演歌、日本歌謡)を作れば、若い方がカラオケで歌ってくれたり、心に響くものができるんじゃないのかな?と思ってます。(2011-11-18 01:21:10) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
たまに、椎名林檎のような歌謡的な節回しをアレンジして、ロックも歌ったりしますし。(2011-11-18 01:25:50) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
和楽器を使った邦楽やクラシックの理論を使って、歌謡曲を作ってたりします。(2011-11-18 01:27:15) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
一般に演歌歌手の方は歌唱力が高いと言われてますが、それも日本画の方と通じる気がします。だから、日本画の方は、北島三郎さんのところで、バリバリに修行をして、その歌唱力を生かして日本語でロックを歌って活躍されている方もいます。(2011-11-18 01:31:55) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
一時期、マイケルだ!マドンナだ!プリンスだ!ってあっちじゃそれが流行ってるらしいというノリだけで、CDを買う方が多い時代もあったと思うのですが、僕はもうそういう時代ではないと思うのです。(2011-11-18 01:40:32) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
もちろん、良いと感じたらダウンロードするでも、ライブに行くんでも、応援すべきだと思います。ですが、演歌や、歌謡曲にも、美空ひばりや、坂本九のように古びない良いものもあるんではないかと…。(2011-11-18 01:43:14) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
そういうものを僕は実験して作ってみたいし。もちろん僕は、美術(音楽)自体が大好きなので、様々なジャンルで制作されている方の展示(ライブ)を見に行くのが大好きです。(2011-11-18 01:47:39) link
大浦 雅臣(Masaomi Oura)
@masaommy
ただ、日本画(演歌、歌謡曲)にも良いところはたくさんあるよと、いつも言っている次第です。(2011-11-18 01:49:09) link

畠山直哉展@写美 を見て考えた「作者が自分の作品について語ること」

水野 亮(3)
@drawinghell
畠山展の感想を書いたのだけど、投稿すべきか迷い中。なぜか? 長いから^^; 数えたら全部で26ツイートもある。。。(2011-10-31 21:03:32) link
水野 亮(3)
@drawinghell
そんならブログで書けよという話なのだが、ブログで書く文章に組み立て直すのは結構大変なのだ(←日本語力さらに低下中;)(←というか、そもそも俺のブログは英作文の練習用;;)(2011-10-31 21:04:35) link
水野 亮(3)
@drawinghell
まあ、もう一日考えてみるか。(2011-10-31 21:05:07) link
水野 亮(3)
@drawinghell
畠山直哉展の感想、ケッキョクここに投稿することにしました。全部で26ツイートあります。一気に投稿するため一時的にTLを占拠することになるかもしれませんが、失礼しますm(_ _)m(2011-11-02 05:25:35) link

 

水野 亮(3)
@drawinghell
1)作品と言葉の関係についてはずっと関心があって、とくに「作者が自分の作品について語ること」に関してはいろいろと思うことがある。それはものすごくセンシティブな問題だと思うのだが、概して粗雑に扱われがちな議題でもある。(2011-11-02 05:26:44) link
水野 亮(3)
@drawinghell
2)「自分で自分の作品を説明できなくてどうするのよ!」という主張への違和感は、「アート」や「美術」という言葉の野放図な使われ方にも原因しているように思われる。確かに「説明できること」が前提となる作品も存在する。しかしそれは全ての作品ではない。(2011-11-02 05:27:00) link
水野 亮(3)
@drawinghell
3)「全ての」作者が自分の作品の制作意図を説明できて当然とする考え方は、「アート」を彼らが正嫡と考える一つの文脈へと統一しようとする働きなのだろう。ある意味それは異端審問なのである。しかし当然それは「正嫡/傍流」の概念の外側では通用しない(2011-11-02 05:27:15) link
水野 亮(3)
@drawinghell
4)もう一点、作者が自分の作品の制作意図を説明できる/できない理由は多様だが、作者に作品の制作意図の説明を強要する理由は一様である。つまりは見る側の「時間の節約」なのだ。(2011-11-02 05:27:25) link
水野 亮(3)
@drawinghell
5)コンペに制作意図の提出を求められるのは、審査時間の節約以上の意味はない。無限に時間があるならば、一点一点時間をかけて作品を見れば済む話だからだ。グラントやプロジェクトの説明も同様である。(2011-11-02 05:27:35) link
水野 亮(3)
@drawinghell
5)コンペに制作意図の提出を求められるのは、審査時間の節約以上の意味はない。無限に時間があるならば、一点一点時間をかけて作品を見れば済む話だからだ。グラントやプロジェクトの説明も同様である。(2011-11-02 05:27:35) link
水野 亮(3)
@drawinghell
6)だから作者に制作意図の説明を求める者は、審査員であり、クライアントであり、地元住民であり、総じて言えば作品と自発的な関わりを持たない者たちである。「全ての作品に必要な制作意図の説明」とはつまりはそうした者たちに向けるべきものなのであり、作品の受け手に向けたものではない。(2011-11-02 05:27:44) link
水野 亮(3)
@drawinghell
7)しかし「作者が自分の作品について語ること」はそうした処世的な「説明」のレベルに留まるだけのものではもちろんない。ときにはそれは「作品」の内部にまで入り込む。そして、ときとしてそれは当の「作品」によって裏切られる。(2011-11-02 05:27:54) link
水野 亮(3)
@drawinghell
8)そもそも「作品」にとって「作者」はどのような意味を持つのか? 作者の「制作意図」が作品に対して持つ意味とはなにか? そんなことを考えさせられたのは東京都写真美術館で開催されている畠山直哉の個展「ナチュラル・ストーリーズ」を見たからだ(以上前フリ。ここから本題)。(2011-11-02 05:28:03) link
水野 亮(3)
@drawinghell
9)今回の畠山の個展会場では、制作意図はおろかタイトルを示すキャプションすらもなく、すべての「言葉」が展示室から放逐されていた。もちろんそのことは畠山が「自分で自分の作品を説明できない」ことを意味しない。むしろ畠山は言葉に長けた写真家だと思う。(2011-11-02 05:28:13) link
水野 亮(3)
@drawinghell
10)プロジェクトを遂行するためには制作意図の説明は不可欠であろうし、さらに作品に肉薄したレベルにおいても畠山の言葉は考え抜かれたものであるように感じる。展示に「説明」を付けないこともその一環だろう。しかし展覧会の外側で我々は彼が「制作意図」を語った言葉に触れることができる。(2011-11-02 05:28:22) link
水野 亮(3)
@drawinghell
11)アサヒカメラの「写真家と震災」特集に寄せた畠山のテキスト≪「いい写真」とはなんだろう?≫は、震災後に「芸術家(あるいは表現者)」として発せられた言葉としてはもっとも(あるいは唯一)身に沁み、腑に落ちる言葉だった。今月号の芸術新潮のインタビューも興味深く読んだ。(2011-11-02 05:28:34) link
水野 亮(3)
@drawinghell
12)今回の個展の最大の焦点は津波を被害を受けた陸前高田の震災直後の写真が出品されていることだろう。畠山自身陸前高田の出身であり、今回の津波災害によって母親を亡くしている。上に挙げたテキストやインタビューは、それらのことを踏まえた上のものなのである。(2011-11-02 05:28:44) link
水野 亮(3)
@drawinghell
13)おそらく畠山はそれを撮ることに対しても、撮ったことに対しても、見せることに対しても、あるいはそれらを言葉にすることに対しても深い内省を重ねてきたのだろう。そのことは彼の言葉からひしひしと伝わってくる。そしてその彼の思いに、その「制作意図」に深く首肯する。(2011-11-02 05:28:52) link
水野 亮(3)
@drawinghell
14)ところが今回展示を見ての最大の驚きは、当の写真が畠山の言葉をマッタク裏切っていたということなのだ。畠山の言葉から想像していたものと、実際の写真を見ての印象はまるで異なっていた。(2011-11-02 05:29:02) link
水野 亮(3)
@drawinghell
15)実際に見た畠山の陸前高田の写真は、当たり前のような顔をして「畠山直哉」の写真だった。過去の作品とはアプローチが異なっていることや、破壊された町が写真家の故郷であり母を亡くした場所であるという「個人の物語」を、そこに感じることはなかった。(2011-11-02 05:29:12) link
水野 亮(3)
@drawinghell
16)つまりそこに自分が見たものは、災害の当事者としての畠山の「個人の物語」や津波災害の「明瞭な記録」というよりも、むしろ「写真家:畠山直哉」であり、過去の作品とも一貫した彼の「表現」だったのだ。(2011-11-02 05:29:22) link
水野 亮(3)
@drawinghell
17)展覧会としてもこの陸前高田の写真があって、はじめて一つの展示として完成しているように感じた。これらの写真自身が畠山の一連の仕事に対する「読み直し」を可能にしている。むしろこれらの写真があって初めて自分は畠山の作品を深く理解できたように思えた。(2011-11-02 05:29:31) link
水野 亮(3)
@drawinghell
18)では、それらの作品から伝わってきたものとは何か? 俺はそれは「残酷さ」だと思った。津波の惨禍は凄まじい。しかし残酷なのは地震でも津波でもない。それは大いなる自然の営みの一つであって、自然の側に立てばそれは「残酷」でもなんでもないのだろう。(2011-11-02 05:29:42) link
水野 亮(3)
@drawinghell
19)では「残酷」なのは誰か? それはその惨状をも「美しく」撮影してしまう写真家である。そしてそれを「美しい」と感じてしまう俺である。「残酷さ」は自然の側にはない。それを見る人間の側にあるのである。(2011-11-02 05:29:54) link
水野 亮(3)
@drawinghell
20)そして畠山の写真は、一貫してそのことを扱っているように思える。自然の力でできた眺望も、人間の手で自然に付けた傷痕も、自然によって破壊された人間の営みの残骸も、すべて等しく「美しい」と感じてしまうその性こそが「残酷」なのである。(2011-11-02 05:30:03) link
水野 亮(3)
@drawinghell
21)津波の惨禍を「美しい」と感じることが倫理に反するから「残酷」なのではない。そもそもなにかを見て「美しい」と感じること自体が既に「残酷さ」を孕んでいるのである。人間は「美しさ」を感じる「残酷」な生き物なのだ。(2011-11-02 05:30:15) link
水野 亮(3)
@drawinghell
22)「美しい」とはなにか? なぜ人間はそれを感じてしまうのか? それは、もしかしたら人間が背負う原罪なのかもしれない。そして、だからこそ、それは人間が人間であることの証なのかもしれない。畠山の写真はその事実を突きつけてくる。(2011-11-02 05:30:24) link
水野 亮(3)
@drawinghell
23)そして「作品」もまた残酷なものである。それは作者の万感の思いや意図、あるいは置かれた身の境遇さえも、まるであざ笑うかのように裏切り、越えていくのだ。(2011-11-02 05:30:35) link
水野 亮(3)
@drawinghell
24)では、陸前高田の写真に込められた作者の「制作意図」や「個人の物語」はどこに行ってしまったのか? それらは消え失せてしまったのか? そんなはずはあるまい。それは写真のなかに封じ込められているはずだ。(2011-11-02 05:30:45) link
水野 亮(3)
@drawinghell
25)しかしそれは作者の「意図したとおり」には見る者に伝わらない。しかし今回の展示に関しては、むしろ作者の意図や思いを作品が裏切り、超えていたこそが、自分にとって一番の救いであり、希望のようにも感じられた。(2011-11-02 05:30:56) link
水野 亮(3)
@drawinghell
26)今回の畠山の個展ではいろいろなことを考えさせられた。これは凄く重層的な展覧会だと思う。そしてその深みは、彼の作品が作者の思いや意図を超えたところから始まっているのだ。その意味において、自分は作者の「制作意図」には大いに意味があったのだと考える。(了)(2011-11-02 05:31:04) link

畠山直哉展 Natural Stories ナチュラル・ストーリーズ - 東京都写真美術館

畠山直哉展「Natural Stories ナチュラル・ストーリーズ」と「作者が自分の作品について語ること」の意味 - Togetter

畠山直哉の被災地の写真について - Togetter

東日本震災の写真 写真家の写真と報道写真の違いはあるのか - Togetter

中谷礼仁+畠山直哉「災厄(カタストロフ)の記録と表象──3・11をめぐって」に関するツイート - Togetter

病と真宗の関係

川浪剛
@KAWANAMITakeshi
大阪の七山病院は、400年の歴史を持つ精神病院。http://t.co/IvGi8kB6 始祖、本多左内師は真宗の僧侶であった。病と真宗の関係は?精神を病むこと、そのことと救いとはどう関係するか?長年、頭を離れない課題。(2011-10-30 10:08:27) link
kakuyu
@southmtmonk
"本多左内は…淨見坊義風とも称し…永禄6年(1563)に生れ、医術を修め、慶長4年(1599)…泉州七山の地に淨見寺を建立し、癇症病及び癲狂病の治療薬、精気丸(赤)健児丸(黒)の投与と仏への祈祷および灸法による治療を開始しました" http://t.co/Z5KudRWr(2011-10-30 21:18:30) link
kakuyu
@southmtmonk
"童唄にも歌われて栄え、七山の地を踏めば精神病が治るとも、また、七山に送るぞとおどかされ、また、附近の水間観音に参詣の帰路、七山の地に寄り、灸をうけたり、薬をもらったといいます" http://t.co/VohSw6RB(2011-10-30 21:19:28) link
kakuyu
@southmtmonk
こちらの年表によれば淨見寺以前にも漢方による癲狂者の治療はおこなわれていたようだ。 "1494年 三河国、光明山順因寺(現羽栗病院)、漢方薬による癲狂者治療" http://t.co/PpedWiZ7(2011-10-30 21:24:34) link
kakuyu
@southmtmonk
どうやら本多左内の治療法の特質は漢方薬の投与に加えて行われた「灸法」にあるようだ。また時には加持祈祷も行われていたようであり、真宗の教学との関連は薄いと思うがどうか。(2011-10-30 21:30:02) link
川浪剛
@KAWANAMITakeshi
日本の精神科治療発祥の地とされるのは、京都の岩倉。大雲寺。http://t.co/qE0jkw6B 日本にもっと目を向けたい。(2011-10-30 10:15:05) link
イシカワ マサホ
@kokorookiraku
この本を手にして思うのは、親鸞の周辺における「病」に関する事柄を、もう一度考え直すことが必要ではないかということだ。恵信尼が薬の調合を行っていたこと。弁念、善鸞、その後も文献に現れる修験道と祈祷と薬との関係。そして現代においても、病ということを、門徒としてどう考えるのか。(2011-10-29 13:30:19) link
kakuyu
@southmtmonk
"京都の中学校では…「岩倉から出てきたんとちゃうか」という言葉を何度も聞いた。ちょっとおかしなことを言うとそうからかわれたのだ。 「岩倉」とは明治17年にできた岩倉癲狂院が、その後は岩倉精神病院、岩倉病院とつづいた場所をさす"  http://t.co/DoibIMwO(2011-10-30 21:39:23) link
kakuyu
@southmtmonk
"しかし「岩倉」は、もともとは天台密教の余慶法師が10世紀におこした岩倉大雲寺にもとづいている。ここに冷泉天皇の妃昌子の精神病治癒を記念して観音堂が建立された"http://t.co/DoibIMwO(2011-10-30 21:41:06) link
kakuyu
@southmtmonk
"また、後三条天皇の第三皇女佳子が「髪乱し、衣裂き、帳に隠れてもの言わず」という状態になったので霊告によって大雲寺に籠もらせたところ平癒したという噂もたち、岩倉に治癒を求める者がふえたという" http://t.co/DoibIMwO(2011-10-30 21:41:48) link
kakuyu
@southmtmonk
こちらのサイトに引用されている小俣和一郎『精神病院の起源』の文章によれば、日本の精神病治療施設には「密教系の水治療を中心とする施設」「浄土真宗系の漢方治療をとりいれた施設」「日蓮宗系の読経を治療につかう施設」の三タイプがあったようだ。 http://t.co/DoibIMwO(2011-10-30 21:46:07) link
kakuyu
@southmtmonk
”本書では千葉の田辺日草が精神病に罹って中山法華経寺の荒行で回復したことから東京芝の長久寺の住職になったのち、石神井に石神井慈療院をおこし、それが慈雲堂病院になっていった例を照らしている”(2011-10-30 21:47:55) link
kakuyu
@southmtmonk
”ちなみにここ(慈雲堂病院)には1933年にダダイスト辻潤が入っていたことがあって、その体験をのこしている。そのときも読経が習慣化していたようで、辻は「読経によって無我の境に入ることを得て、自然病気が癒えるのに別段不思議はない」と書いている”(2011-10-30 21:49:45) link
杉本佳男
@Yoshio_Sugimoto
@southmtmonk 岩倉の話では、禊ぎにより落ち着きを取り戻したと聞いたことがあります。ある精神科医が、ヒステリーにはシャワーが効果的という話しも聞きました。(2011-10-30 21:51:27) link
杉本佳男
@Yoshio_Sugimoto
@southmtmonk 岩倉の話では、禊ぎにより落ち着きを取り戻したと聞いたことがあります。ある精神科医が、ヒステリーにはシャワーが効果的という話しも聞きました。(2011-10-30 21:51:27) link
kakuyu
@southmtmonk
慈雲堂病院では男女合せて数百人が一堂に会して毎朝夕一時間、南無法蓮華経を読誦する習慣があったそうだ。(辻潤「瘋癲病院の一隅より」)(2011-10-30 21:51:32) link
kakuyu
@southmtmonk
@Yoshio_Sugimoto へぇ~今でも実際に効果があるもんなんですね。興味深いです。(2011-10-30 21:55:06) link

横浜トリエンナーレ2011に行ってきました

永瀬恭一
@nagasek
横浜トリエンナーレ2011に行ってきました。なんか想像以上の人出で、人気あるんだなと思ってびっくりしました。(2011-10-23 23:19:12) link
永瀬恭一
@nagasek
トータルで見ると、ちょっとピントがあってない印象もあります。超豪華で大規模なグループ展(いや実際そうなんだけど)というか。コンセプトが展示全体として現れてないというか、キュレーターの意図のコアが見えなかった。(2011-10-23 23:23:22) link
永瀬恭一
@nagasek
「OUR MAGIC HOURー世界はどこまで知ることができるか?ー」とあって、MAGIC、つまり合理的認知では取りこぼすような作品を、ということは事前に了解していたのだけど、案外展示も作品も電波度が足りないのかな。(2011-10-23 23:27:46) link
永瀬恭一
@nagasek
倉庫に「森」を持ち込んだり美術館に極端に暗い空間をたくさん作ったり。あるいは迷路的な展示をしたり。脳・心の森というか、美術館のコレクションからシュルレアリズムの作品をひっぱったり、それと関連付けてコンテンポラリーを展示したりとか、工夫はよく判った。(2011-10-23 23:29:55) link
永瀬恭一
@nagasek
そうしてみると美術館という箱はやっぱり案外強力で、どうやっても導線が決まってたりとか、本当のカオスにはならないんだなと(あの動員でカオスになったらけが人出るけど)。すると問題は作品の力なのか?と思ったりもするけど、やはり展示が上手くいってない所気になるんだよなと。(2011-10-23 23:32:17) link
永瀬恭一
@nagasek
エルンストとかの近くに石田徹也を並べるとか、とくに絵画周りの具象的作品を「マジック」で見せるところはちょっと無理が祟ってたと思う。(2011-10-23 23:37:23) link
永瀬恭一
@nagasek
あれでやばいのは、シュルレアリスムへの通俗的イメージがそのまま石田徹也とか横尾忠則とかに繋がってしまって、全体にあのセクションが悪い意味で見世物小屋になってる。狙ったというなら、通俗的な入り口からそれなりに本格的なところに連れ込まないといけないのに、そこで散漫になってないかと。(2011-10-23 23:39:00) link
永瀬恭一
@nagasek
まぁ突っ込みばかり入れるのも非生産的だけど、空間としてはBankartの倉庫の方が上手くいっていたと思う。こっちも豪華な文化祭っぽかったけど、「お化け屋敷」みたいな。でもそれが横トリっぽさでもあるかも。横浜って場所もあるし。(2011-10-23 23:42:26) link
永瀬恭一
@nagasek
本当は僕は悪くない印象だったんだよね。それは水準が高かった、という評価というより、ある種の俗っぽさが横浜の町とそれなりにリンクしてたし、お祭りと割り切れば壮大なお化け屋敷をやって見せました、というのは相応に理解できる。変にアーティーに攻めて???と思われるよりいいのかもと。(2011-10-23 23:46:00) link
永瀬恭一
@nagasek
ぶっちゃけ、まだ横トリが続いていることに妙な感慨を持ったんですよ。2001年の鳴り物入りの割りに妙に地味な(いやバッタはあったけどさ)展示とか(パシフィコがなー)、2005年の磯崎辞任+川俣やけっぱち仮設トリエンナーレとか。次あるのかと毎回思ってた。(2011-10-23 23:51:32) link
永瀬恭一
@nagasek
それが今回は「次回もあるだろう」と思えた。人が多かった、というのもあるけどそれは会期末の日曜だからで、どっちかっていうと、イベントとして地元にも周囲にも相応に刻印されたのでは?と。多少アラがあっても、それは地元の祭りってそうだろうと。(2011-10-23 23:55:44) link
永瀬恭一
@nagasek
逆をいうと、ほとんど「国際展」の意義はない感じがしました。統計など知らないので、実際に違っていたらご指摘願いたいのですが、入場者数に外国からのお客さんは少ないんじゃないかな。少なくともそういう印象を持った(川俣さんの時のほうがまだ国際的な感じした)。(2011-10-23 23:58:16) link
永瀬恭一
@nagasek
わかった円高が原因だ。(2011-10-24 00:48:01) link
永瀬恭一
@nagasek
【報告】横トリのツイートで再びフォロワーが立て続けて減る事態。(2011-10-24 00:52:44) link
永瀬恭一
@nagasek
やっぱあれだ、あの人入りからすると、横トリえらそうに語るなんてマジふざけんな☆とかそういう事か。(2011-10-24 00:58:44) link

→ 超お化け屋敷・横浜トリエンナーレ2011 - paint/note

長谷川等伯(信春) « 石川県七尾美術館

長谷川等伯(信春)とは

長谷川等伯(信春)は、桃山時代に狩野永徳率いる狩野派と対抗し、自ら「雪舟五代」を名乗り長谷川派の長として活躍した画家です。
1539年(天文8年)、能登国の戦国大名・畠山氏の家臣である奥村文之丞宗道の子として七尾に生まれ、幼い頃に染物業を営む奥村文次という人物を通して、同じく染物屋の長谷川宗清の元へ養子に迎えられたと言われています。
晩年、等伯が自ら語った芸術論を、親しくした本法寺第十世・日通上人が綴った『等伯画説』(京都市・本法寺)の画系譜によると、どうやら養父・宗清も絵描きであったと見られることから、或いは宗清にも学んだ可能性があると考えられています。

●能登の時代 20歳代後半〜33歳頃●●
「日蓮聖人坐像」本延寺蔵 現在、知られている作品で最も初期の作品は26歳筆の落款のあるもので、能登を中心に石川県・富山県などに10数点が確認されています。これらの作品には、袋形の「信春」印が捺されており、等伯若年期には信春の名で活躍していたことが知られています。その内、奥村家の菩提寺・本延寺の等伯が自ら彩色寄進した木造「日蓮聖人坐像」(七尾市・本延寺蔵)、「日乗上人像」(羽咋市・妙成寺蔵)、「日蓮聖人像」「釈迦・多宝仏図」「鬼子母神・十羅刹女図」「三十番神図」(4点共、高岡市・大法寺蔵)、平成14年に東京国立博物館の調査で明らかとなった、33歳筆「鬼子母神・十羅刹女図」(富山市・妙傳寺蔵)は何れも日蓮宗関係であり、等伯自身も熱心な法華信者であったことがうかがわれます。

 

●京都・堺の時代 30歳代中頃〜40歳代●●
当時の能登七尾と京都との関係は想像以上に強く、畠山の時代にも京都の文化人や僧侶が訪れており、京都の文化は海のルートでストレートに入ってきていたと考えられます。『等伯画説』の内容から、この能登地方に優れた先人の絵画が存在していたことが伺われますし、当時、法華寺院の住職は年に一度必ず本山へ出向いたとの事ですから、等伯もそういった法華の繋がりですでに京都と行き来していた可能性が高いのです。
等伯33歳の時、養父母が相次いで亡くなっており、恐らくはそれを機に妻子を連れて上洛したのではないかと考えられています。当時の平均寿命が40歳前後と言われていますから、当時30歳を過ぎて大舞台京都を目指すには、かなりの自信と強いバックアップがあったのではないかと考えられます。
「日堯上人像」 本法寺蔵 さて、上洛後等伯は、本延寺の本山・本法寺の塔頭である教行院に住し、制作活動を行います。本法寺には、その当時の住職で若くして亡くなった日堯上人の肖像画が現存し、「父道浄六十五歳」「長谷川帯刀信春三十四歳筆」の款記と袋形「信春」印が確認されています。本作品は、美術作品としてはもちろんの事、等伯研究で知られた故 土居次義氏が「長谷川等伯・信春同人説」を提唱されるに至った、重要な資料としても知られています。
能登周辺以外にも「信春」印作品が所蔵されており、その筆致からも上洛後しばらくは「信春」印を使用していたと見られます。しかし、40歳代筆とはっきり款記のある作品は現存せず、40歳代の活動については不明な点が多く、岡山県立美術館所蔵の「達磨図」と岡山県妙覚寺所蔵の「花鳥図屏風」には、主に狩野派が好んで使用した鼎(壷)形の「信春」印が捺されていることから、狩野派との関係も指摘されてきました。それが、平成14年に七尾市が購入した新出の「陳希夷睡図」によって、かなり鮮明に見えてくることになります。
「陳希夷睡図」 当館蔵 本図は、樹下で眠る陳希夷の姿を描いた水墨画で、小品ではありますが確かな筆致を見ることができます。晩年の等伯作品に通ずる樹木や人物の顔描の他、興味深いのは狩野派を思わせる衣紋の線です。また、海老根聰郎氏は、梁櫂との関わりも指摘されています。京都に出て仕事をするには、等伯といえども最初はやはり狩野派の門をくぐったのかも知れません。さらに、特筆すべきは『等伯画説』の一文です。そこには、紫野(大徳寺)にある雪舟の描いたチントン南(陳希夷)の記述があり、これをそのまま解釈すれば、当時大徳寺に雪舟の描いた「陳希夷睡図」があり、等伯がその作品を見て影響を受けたとしても不思議ではないのです。すなわちこの時期は、狩野派のみならず様々な画派の絵画を学び消化吸収し、そこから等伯ならではの独自の表現を試みていった、非常に重要な期間と言えます。
50歳代からの動向を見ればわかるように、等伯の美意識は狩野派の美意識とはかなり異なるものであり、しだいに狩野派を離れていったと思われます。そして等伯は、本法寺の日通上人や、千利休らと親交を結んでいったのではないかと考えられるのです。等伯が最も親しくしたといわれる日通上人と千利休は共に堺の出身であり、等伯の後妻である妙清(先妻の妙浄は、等伯41歳の時に死去)も堺の出身です。日通上人は、等伯が48歳の時に本法寺に入寺しますが、その前に堺で等伯と親しくなったとも考えられます。当時の堺は素晴らしい商業都市で、多くの文化人たちが集う場所でした。茶の湯も大変流行しており、茶室には中国や日本の優れた絵師による軸が掛けられていたと見られ、等伯もそれらの作品に直に接し学ぶところも多かったのではないでしょうか。
また、現存はしないものの、45歳の時に大徳寺頭塔である総見院に「山水図」「山水図」「芦雁図」を描いたという記録が残っており、利休らを通じてこの頃より大徳寺などの大きな仕事を受けるようになっていたと見られます。これらの大きな仕事をこなすには、当然2~3人ではなくある程度のまとまった絵師たちが必要ですから、狩野派と同じとまではいかないにせよ、等伯40歳代中頃にはすでに長谷川派と呼ばれるような絵師たちを率いていたことが推測されるのです。

 

●京都の時代 50歳代●●
等伯は51歳の時、大徳寺山門に天井画と柱絵を描いています。しかし、ここには等伯の伯の1字を異する「長谷川等白五十一歳筆」の款記があり、作風からも等伯筆を疑問視する研究者も多く、未だ確かなことは解っていません。その後、等伯52歳の時に仙洞御所障壁画の仕事が決まりそうになったのですが、狩野派の圧力により阻止されたという出来事が、勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』に記されています。この時の等伯の憤りは、大変なものであったと思われますが、その後すぐに狩野派の長である永徳が48歳でこの世を去るのです。そしてその翌年、わずか3歳で亡くなった秀吉の嫡子である鶴松の菩提寺・祥雲寺の大仕事が等伯の元に舞い込みます。今度は逆に、派の長である永徳を亡くして動揺を隠し切れないでいるところに、「京都第一の寺」と言われた祥雲寺障壁画(現 智積院)の大仕事を等伯率いる長谷川派に持っていかれた狩野派の憤りは、計り知れないものであったと解されます。等伯は、永徳を強く意識しながらも、金碧障壁画でありながら狩野派にはない抒情的な自然表現を試み、等伯はこの仕事を通して名実共に狩野派に対抗するまでになったのです。しかし、その等伯に次々と悲しみが襲います。この障壁画完成の前年に、良き理解者であった千利休が自刃するのです。そして、その悲しみの中で完成させた矢先、等伯の片腕となって制作にあたった息子の久蔵までが、26歳という若さで亡くなってしまうのです。
その悲しみを背負って描いたと言われるのが、「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)です。これは等伯筆「楓図」や久蔵筆「桜図」など祥雲寺の一連の障壁画と同じく、国宝に指定されています。この松林図は、日本を代表する水墨画の名作として特に近年注目を集めていますが、紙継ぎがずれていることや、捺されている「等伯」印が後印と見られること、それに加えて最近「月下松林図屏風」(個人蔵)の存在が明らかとなり、「松林図屏風」は本画ではなく下絵の可能性があると見る研究者もいます。しかし、いずれにしてもこの国宝本の筆者は等伯以外には考えられず、広く一般や専門家たちの間でも周知のこととなっています。
海岸沿いの松林 当時、七尾の海岸沿いにはずっと松林が続いていたと考えられます。描かれた松林は、強風に耐え細く立ちすくむ能登の松林に、あまりにも似ています。良き理解者である千利休を亡くし、息子久蔵を失った等伯の目に映ったのは、郷里七尾の松林だったのかも知れません。心象風景とも見えるこの「松林図屏風」には、大切な人たちの死を乗り越え、水墨画にその境地を求めていった等伯の心情が映し出されているのです。  等伯50歳代は、深い悲しみに見舞われながらも、「松林図屏風」をはじめ「竹林猿猴図屏風」(相國寺・承天閣美術館蔵)や「樹下仙人図屏風」(京都市・壬生寺蔵)、「枯木猿猴図屏風」(妙心寺・龍泉庵蔵)や出光美術館所蔵で知られる「竹鶴図屏風」「松に鴉・柳に白鷺図屏風」「竹虎図屏風」など多くの優れた水墨画を制作し、画家としては最も充実した時代だったとも言えるのです。

 

●京都の時代 60歳代●●
等伯は、老年期とも言われる60歳になっても次々と大作を手掛けていきます。61歳の時には、妙心寺隣華院の襖に「山水図」襖を描いています。そして、63歳の時には大徳寺塔頭の真珠庵の襖に「商山四晧図」「蜆子猪頭図」を描き、その翌年には南禅寺塔頭の天授庵に「商山四晧図」「禅機図」「松に鶴図」などの襖絵を制作しています。しかし、この頃になると若干等伯の筆とは解しにくい部分も見受けられ、等伯も多くの長谷川派絵師を従え、一派で制作にあたったものと推測されます。
一方で等伯は、親しくした人物の肖像や「大涅槃図」なども描いています。本法寺所蔵の「大涅槃図」は、京都三大涅槃図の一つに数えら「大涅槃図」本法寺蔵れる大幅で、華やかな描表具を含めると高さ10mにも及びます。本図は供養を行う前に宮中に持参し、披露したという記録も残っている作品で、「雪舟五代」と「六十一歳」の書き込みがあり、60歳前後から「自分は雪舟より五代目なのだ」ということを強く打ち出し、より長谷川派の結束を固めようとしたと解されます。注目されるのは、本図表具の裏には日蓮聖人以下の諸祖師、本法寺開山の日親上人以下歴代住職及び、祖父母や養父母、等伯より先立った息子たちなどの供養銘が記されていることです。老齢の等伯が、一派で描いた大涅槃図…いったいどんな思いで描いたのでしょうか。この大きな画面の中で嘆き悲しむ弟子や動物たちを前にした時、まるで先立っていった人々への等伯の哀悼と供養の想いが伝わってくるようです。
等伯は66歳の時「法橋」に叙せられています。これは元々、宮中から高僧に対して授ける位でしたが、功績のあった優れた絵師たちにも与えられるようになりました。『御湯殿上日記』によると、等伯がそのお礼に屏風1双を宮中に持参したと記されています。当時は、この位を貰うために様々な品が献上されたといわれますが、屏風の場合4双程度必要であったといいますから、そのまま解釈すると等伯の1双というのは特例ではないかと思われます。それから、長谷川家の系図には、等伯は67歳の時、法橋の次の位である「法眼」に叙せられたと記されています。これを裏付けるように、アメリカのボストン美術館には「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆 六十八歳」の落款のある「龍虎図屏風」が現存しています。しかし、当時一般的には「法橋」から「法眼」までは4~5年かかるとされており、1年後となるとかなり異例のことと言えることなどから、この「法眼」叙任については疑問視する研究者もいます。また、故山根有三氏はその問題に加え、制作中の等伯が慶長九年(66歳)12月に高所より墜落し、右手が不自由となるという記録(『医学天正記』)に注目、それを裏付けるようにそれ以降の作品は線描も粗く硬く繊細さに欠けることなどの理由から、67歳以降の落款がある作品については、ほとんどが弟子の筆と提唱されています。

 

●京都の時代 70歳〜72歳●●
等伯70歳の時、親しくしていた本法寺の日通上人が亡くなり、等伯はその日通上人の肖像を描いています。また、71歳の時には大徳寺塔頭の高桐院住職・玉甫紹王宗の肖像も描いていますが、いずれも若年期の肖像画と比較すると線描は簡略化されてかなり異なることや、「日通上人像」にある「自雪舟五代 長谷川 法眼 等伯筆 七十歳 戒名日妙」の書き込みと「長谷川」「等伯」印も後落款とする見方もあり、やはり等伯筆を疑問視する声もあります。しかし、日通は最も親しくしたと見られる人物ですから、その肖像画を弟子に描かせるとは考えにくいのではないでしょうか。また、作品からは日通の実直な人柄までもが伝わってきますし、やはり日通をよく知リ尽くした等伯が、筆力の衰えを実感しながらも描いたのではないでしょうか。
慶長15年、等伯72歳の時に徳川家康から江戸に呼ばれ下向しますが、現在のような便利な交通手段があるわけもなく、72歳という高齢で江戸に向かうというには、かなりの覚悟があったと思われます。後の長谷川派の命運をかけての一大決心だったのでしょう。しかし、高齢の等伯にとってこの長旅は、やはり無理があったのでしょう。途中で病に冒され、江戸到着後2日目に亡くなってしまうのです。さぞかし無念であったと思います。長男の久蔵亡き後、等伯の後継者となるはずの二男・宗宅も等伯に同行しますが、等伯が没した翌年に亡くなっています。

 

●その後の長谷川派●●
等伯を失った後の長谷川派には、等伯と並ぶほどの弟子が存在しなかったのか、完全に工房体制を確立していた狩野派の様には振る舞えず、次第に勢力を失っていきます。しかし、三男・宗也や四男・左近の絵馬や扁額、屏風などの存在も知られる他、特に左近あたりは他派の作風を積極的に取り入れ、時代に対応していった様子が窺われます。また、江戸時代には長谷川派の絵師が城内障壁画などの仕事で、狩野派と共に参加していたことが記録に残されていますし、京都周辺に限らず全国的に作品が点在していることなどから、必ずしも長谷川派に固執せず、幅広く様々な仕事に参加していったものと推測されます。

●年表●●●●

 

西暦 年号 等伯年齢 長谷川派関連事項(等伯及び息子の事項を中心に記載)
※等伯は40歳代頃まで「信春」を名乗ったといわれるが、表記は「等伯」で統一。※人物名記載のない作品・事柄については、等伯の関連事項。※掲載事項は平成15年10月現在のものである。
1539 天文8 1 長谷川等伯、能登国七尾に生まれる 実父は能登守護畠山氏の家臣・奥村文之丞宗道、のちに染物屋を営む長谷川家の養子となる。若い頃の名は信春、又四郎、帯刀など
1563 永禄6 25 この頃「日乗上人像」(羽咋市・妙成寺蔵)
1564 永禄7 26 「十二天図」(羽咋市・正覚院蔵) 「日蓮聖人像」「鬼子母神・十羅刹女図」「釈迦・多宝仏図」(高岡市・大法寺蔵、全て重文) 「八臂弁財天十五童子図」(個人蔵) 木彫「日蓮聖人坐像」(七尾市・本延寺蔵)彩色 この頃「善女龍王図」(当館蔵)
1565 永禄8 27 「日蓮聖人像」(七尾市・實相寺蔵)
1566 永禄9 28 「三十番神図」(高岡市・大法寺蔵、重文)
1568 永禄11 30 「涅槃図」(羽咋市・妙成寺蔵) 長男・長谷川久蔵生まれる
1571 元亀2 33 「鬼子母神・十羅刹女図」(富山市・妙傳寺蔵) 養父・宗清(道浄)、養母・妙相没(共に享年不詳) この頃に上洛し、本法寺塔頭教行院に滞在する
1572 元亀3 34 「日堯上人像」(京都市・本法寺蔵、重文)
1570年代頃 元亀~天正初年頃   この頃「牧馬図屏風」(東京国立博物館蔵) この頃「愛宕権現図」(当館蔵) この頃「伝名和長年像」(東京国立博物館蔵、重文) この頃「武田信玄像」(高野山・成慶院蔵、重文)
1579 天正7 41 妻・妙浄没(享年不詳) この頃「花鳥図屏風」(岡山県・妙覚寺蔵、重文) この頃「陳希夷睡図」(当館蔵)
1583 天正11 45 大徳寺総見院「水墨山水、松猿、竹鶴、芦雁図」(現存せず)
1589 天正17 51 「大徳寺山門天井画・柱絵」(京都市・大徳寺蔵、重文)現存する唯一の「等白」記名作品 この頃名を等伯と改める 大徳寺三玄院「山水図襖」(現 圓徳院および楽家蔵、重文) 妙清を後妻に迎える この頃「瀟湘八景図屏風」(東京国立博物館蔵)
1590 天正18 52 御所造営に際し、対屋の障壁画制作を巡って狩野永徳一門と対立する この頃「竹林猿猴図屏風」(京都市・相國寺蔵、重文) 三男・長谷川宗也生まれる
1591 天正19 53 この頃「竹鶴図屏風」(東京都・出光美術館蔵)
1592 文禄元 54 この頃、本法寺第十世住職・日通上人著『等伯画説』(京都市・本法寺蔵、重文) 久蔵「朝比奈草摺曳図絵馬」(京都市・清水寺蔵)
1593 文禄2 55 等伯一門「祥雲寺障壁画」(現 京都市・智積院蔵、国宝) この頃「松に鴉・柳に白鷺図屏風」(東京都・出光美術館蔵) 長谷川久蔵没(享年26歳) 四男・長谷川左近生まれる
1594 文禄3 56 「春屋宗園像」(京都市・三玄院蔵) この頃「松林図屏風」(東京国立博物館蔵、国宝)
1595 文禄4 57 「利休居士像」(京都市・不審庵蔵、重文) この頃「樹下仙人図屏風」(京都市・壬生寺蔵、重文) 等伯一門、この頃「妙蓮寺障壁画」(京都市・妙蓮寺蔵、重文)
1598 慶長3 60 「妙法尼像」(京都市・本法寺蔵、重文) この頃「枯木猿猴図」(京都市・龍泉庵蔵、重文)
1599 慶長4 61 「仏涅槃図」(京都市・本法寺蔵、重文)を描き、宮中に持参したのち、本法寺に寄進する この頃本法寺本堂「天井画、襖絵」(現存せず) 妙心寺隣華院「山水図襖」(京都市・隣華院蔵、重文) この頃「波濤図」(京都市・永観堂禅林寺蔵、重文) この頃から「自雪舟五代」を自称するか 長谷川派絵師・長谷川等誉「白描涅槃図」(七尾市・成蓮寺蔵)
1601 慶長6 63 大徳寺真珠庵「商山四皓図襖」「蜆子猪頭図襖」(京都市・真珠庵蔵、重文)
1602 慶長7 64 南禅寺天授庵「商山四皓図襖」「禅機図」など(京都市・天授庵蔵、重文) 大徳寺「高桐院障壁画」(現存せず)
1603 慶長8 65 日親上人筆「本尊曼荼羅」(京都市・本法寺蔵、重文)を本法寺に寄進する 大徳寺「金龍院襖絵」(現存せず)
1604 慶長9 66 法橋となり、その礼に屏風一双などを宮中へ献上する 本法寺天井画制作中に転落、右手不自由となるか 後妻・妙清没(享年45歳)
1605 慶長10 67 法眼となるか
1606 慶長11 68 「龍虎図屏風」(アメリカ・ボストン美術館蔵) この頃「烏鷺図屏風」(千葉県・川村記念美術館蔵、重文) 長谷川派絵師・長谷川等胤、下総国香取神社(千葉県佐原市)の建築彩色を行う
1607 慶長12 69 「竹林七賢図屏風」(京都市・両足院蔵) 「烏梟図屏風」(大阪市立美術館蔵)
1608 慶長13 70 日通上人没(享年58歳) 「日通上人像」(京都市・本法寺蔵、重文) 「弁慶・昌俊図絵馬」(京都市・北野天満宮蔵、重文) 大徳寺「龍光院襖絵」(現存せず)
1609 慶長14 71 「玉甫紹●(王に宗)像」(京都市・高桐院蔵) 「十六羅漢図屏風」(京都市・智積院蔵) 等誉「涅槃図」(七尾市・本延寺蔵)
1610 慶長15 72 二男・長谷川宗宅を伴い、江戸へ下向する 長谷川等伯没(享年72歳) 宗宅、法橋となり、その礼に金子を宮中に献上する 等誉「法華経見返絵」(個人蔵)
1611 慶長16   長谷川宗宅没(享年不詳)
1613 慶長18   等伯の娘婿・長谷川等秀没(享年不詳)
1617 元和3   長谷川派絵師・長谷川等仁、明石城(兵庫県明石市)襖絵制作に参加するか
1620 元和6   等胤「瑞巖寺障壁画」(仙台市・瑞巖寺蔵)制作に参加する
1623 元和9   等伯の娘婿・長谷川等学(等岳)没(享年不詳)
1624 寛永元   左近「三番叟図絵馬」(佐渡・実相寺蔵)
1629 寛永6   長谷川派絵師・長谷川宗圜(等雪)「藤花・牧牛図屏風」(大津市・盛安寺蔵)
1630 寛永7   左近「三十六歌仙図板絵」(滋賀県・海津天神社蔵) 左近、この頃「自雪舟六代」を自称するか
1636 寛永13   長谷川等誉没(享年不詳)
1637 寛永14   長谷川宗伯信近生まれる
1657 明暦3   宗也「大黒布袋角力図板絵」(京都市・八坂神社蔵)
1662 寛文2   宗伯信近、法橋となる
1664 寛文4   宗也「虎図絵馬」(京都市・清水寺蔵)
1667 寛文7   長谷川宗也没(享年78歳)

 

善女龍王図[ぜんにょりゅうおうず]
石川県指定有形文化財善女龍王図
作 者:長谷川信春(等伯)
材質技法:絹本著色
法 量:縦35.5cm 横16.3cm
印 章:「信春」朱文袋形印
制 作:室町末期

「善如龍王」は、元々インドの無熱達池に住む八寸(24cm)の金色蛇で、九尺(270cm)の蛇の頂きに住むと言われる。密教系の仏で、天長元年淳和天皇からの勅命により空海が、神泉苑において請雨修法した折に応現したと伝えられる。「善女龍王」とも書き、本図は頭頂部に八寸ほどの金色の龍(蛇)を戴き、右手に三鈷杵の剣を持し、左手には如意宝珠を戴いた女形の童子像として描かれている。しかし善如(女)龍王を描いた代表的作品として知られる、高野山・金剛峯寺蔵の定智筆、国宝「善如龍王図」の龍王は、中国官服を着して雲上に立つ男神として描かれ、裾の後に蛇の尾が僅かにのぞいた姿で表されている。本図については、清滝権現との関係を今一度見直す必要があるかも知れない。 画面の状態は比較的良好で、信春時代の特徴である優美な色彩を見ることができる。小品ながらも存在感があり、能登時代に多くの仏画を手掛けた等伯の技量が窺える。また、等伯は熱心な法華信者で、特に法華宗関連の仏画を多く描いているが、宗派にこだわらず幅広く仕事をこなしていたことが分かる。 興味深いのは、同じく能登時代に描いた一連の仏画との共通点である。特に宝冠は、「弁財天十五童子画像」(穴水町指定文化財・個人蔵)とほぼ同じ形状である。これらの仏画と照らし合せると、恐らく能登時代の28歳から30歳頃の制作であろう。

 

 

愛宕権現図

愛宕権現図[あたごごんげんず]
石川県指定有形文化財
作 者:長谷川信春(等伯)
材質技法:絹本著色
法 量:縦81.3cm 横36.3cm
印 章:「信春」朱文袋形印
制 作:室町末期~桃山初期

京都の山城愛宕山朝日の峯にまつられてきた愛宕権現は、一般には勝軍地蔵として人々の信仰を集めてきた。特に武家の信仰が盛んで、甲冑を身に着けて軍旗と剣を持ち、乗馬姿で描かれることが多い。本図もほぼ同じ様相で、左手には如意宝珠を戴いている。 制昨年については、当時この辺りに愛宕神社があったことが分かっている他、「十二天図」(県文/羽咋市・正覚院蔵)との共通点が多いことから、26歳頃の制作との見方もある。しかし、火焔の描き方やその存在感のある顔の表現には明らかに上達の跡が確認される。仏画の場合は一般的なスタイルがあるものの、恐らくは上洛後間もない頃、京都の社寺関係からの依頼で描いたと見るのが自然ではないだろうか。 肉眼では確認し辛いが、画面右下に「信春」袋形印がある。

 

 

陳希夷睡図

陳希夷睡図[ちんきいすいず]
石川県指定有形文化財
作 者:長谷川信春(等伯)
材質技法:紙本墨画
法 量:縦48.1cm 横23.1cm
印 章:「長谷川」朱文長方形印、「信春」朱文鼎形印
制 作:桃山時代

本図は、樹下で睡眠をとる仙人を描いた水墨画である。 特筆すべきは、左下部に捺された2印である。「長谷川」朱文長方形印と「信春」朱文鼎形印の内、後者が捺された作品は現在2点しか確認されておらず、20歳代後半頃から30歳代頃に使用した袋形「信春」印と、50歳代から使用した「等伯印」との間の、一時期にのみ使用されたものとして注目されている。 等伯は晩年、自ら雪舟五代を名乗り、『等伯画説』(等伯が語ったものを、親しくした本法寺住職・日通上人が筆録したもの)にも、等伯が雪舟、等春の流れを汲むということが記されている。しかし、実際にそれを強く裏付ける作品は、本図と同じ鼎(壷)形印を持つ「花鳥図屏風」だけと言われてきた。その様な中で、本図はまさにそれを示す作品であり、等伯研究者たちが捜し求めていた作品なのである。 筆の流れ、墨の溜まりは雪舟を思わせ、この特殊な寸法については、等春も影響を受けた中国宋元絵画に基づくものと思われる。不透明であるとされている、等伯40歳代の動向を知る上でも注目されることは間違いない。 全国的に周知のように、等伯作品はまず世に出ることはないと言われている。絵手本を元に描く仏画とは違い、この作品は小品ではあるが等伯の創作的絵画であり、筆致を見ても資料的にも大変貴重な作品と言えるであろう。

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